最初は、まっさらな空間に、ぽつりと芽が一つあるだけだった。
夢を見る度に徐々に大きくなって、ある日の晩に、とうとう大きな一本の樹になった。
それは空を隠さんとばかりに枝を広げていて、その葉の隙間からこぼれる真っ白な光が、あまりに美しく、目をそらせないほどである。
それは空を隠さんとばかりに枝を広げていて、その葉の隙間からこぼれる真っ白な光が、あまりに美しく、目をそらせないほどである。
それから何日かは変化がなく、ただ見上げているだけだったが、
ある時、最も太い枝の先に、つぼみがあることに気付いた。
それは次の日の晩に白い花となり、その次の日には花びらを落として小さく縮こまっていて、
どうやら実になるらしいと、ぼんやりと理解した。
どうやら実になるらしいと、ぼんやりと理解した。
そして幾晩か経ち、枝につやつやと大きく、真っ赤な実がなったのが、今朝の夢のことである。
眠い目をこすって、緩やかに波打つ茶色の髪を、櫛で適当に撫で付けて、二つに結わく。
初めて袖を通してからもう二年もたつ制服をさらりと着て、明美は学校へ向けて自転車をこぎだした。
初めて袖を通してからもう二年もたつ制服をさらりと着て、明美は学校へ向けて自転車をこぎだした。
明美はこの春、新森高校の三年生になった。
受験を控え、多くのクラスメートは勉強にいそしみ、夏休みに入れば、早い者はいくつか試験を受けて、進路が決まってしまう。
放課後のグラウンドや体育館からは、最後の夏に向け、運動部の熱い声が聞こえてくる。
対して明美の所属する美術部は、明確な引退がないので、ゆっくりと夏休み明けの文化祭のだいたいの計画を練りだし、個人製作に取り組み始めたころだった。
受験を控え、多くのクラスメートは勉強にいそしみ、夏休みに入れば、早い者はいくつか試験を受けて、進路が決まってしまう。
放課後のグラウンドや体育館からは、最後の夏に向け、運動部の熱い声が聞こえてくる。
対して明美の所属する美術部は、明確な引退がないので、ゆっくりと夏休み明けの文化祭のだいたいの計画を練りだし、個人製作に取り組み始めたころだった。
毎年、決まって三点の個人製作と、部員全員で大アーチと呼ばれる校門に飾る大看板、
二年生が主動となって小アーチと呼ばれる美術展のメインとなる絵を制作する。
今年のテーマは宇宙で、その原画はつい先日、大アーチが部長であり芸術家が両親の安藤若菜、小アーチが美術のコンクールで多くの賞を取っている二年の水谷隆也の絵に決まり、今はキャンバスとなる大きな半円状の木の板が美術室に届くのを待っているところであった。
二年生が主動となって小アーチと呼ばれる美術展のメインとなる絵を制作する。
今年のテーマは宇宙で、その原画はつい先日、大アーチが部長であり芸術家が両親の安藤若菜、小アーチが美術のコンクールで多くの賞を取っている二年の水谷隆也の絵に決まり、今はキャンバスとなる大きな半円状の木の板が美術室に届くのを待っているところであった。
夏休みを前にして、教室では受験生も浮き足立っていた。
実際、明美のクラスは優秀な成績を取っているものが多く、進路がほぼ決定しているものも少なくないからだろう。
実際、明美のクラスは優秀な成績を取っているものが多く、進路がほぼ決定しているものも少なくないからだろう。
明美も、多少は浮き足立っていた。進路が決まっている訳ではなく、この教室から抜け出したかったのだ。
毎日この教室で、興味もない授業に、点を取るためだけに出席する。
黒板に向かっているときほど退屈なことはなかった。いや、本当は明美にとって、その教室で起こること全てが退屈であると言えた。
昨日のテレビドラマの感想。
流行のコメディアンの一発芸の真似。
恋の噂。
先生の悪口。
同級生の悪口。
それらは明美にとって、苦痛でしかなかった。美術室で絵に向かっている時だけ、高校へと通う意味を感じた。
美術部の空気に浸っている時だけ、満たされていると感じた。
黒板に向かっているときほど退屈なことはなかった。いや、本当は明美にとって、その教室で起こること全てが退屈であると言えた。
昨日のテレビドラマの感想。
流行のコメディアンの一発芸の真似。
恋の噂。
先生の悪口。
同級生の悪口。
それらは明美にとって、苦痛でしかなかった。美術室で絵に向かっている時だけ、高校へと通う意味を感じた。
美術部の空気に浸っている時だけ、満たされていると感じた。
芸術家になろうなどという夢はなかった。しかし、何になろうという訳でもなかった。
ただただ、教室は苦であり、美術部は楽であった。それだけだった。
ただただ、教室は苦であり、美術部は楽であった。それだけだった。
その日の最後の授業をぼんやりとすごし、鐘が鳴ると同時に道具を片付け始めて、そそくさと美術室へと向かった。
女子たちの会話が少しだけ耳に入る。
高校もそうだったけど、大学も、近いか、程よく好きなことができるか、それだけよね。別に、行きたい理由なんて、ないよね。
彼女たちは明日もこの教室にきて、大して面白くもないことで盛り上がり、おしゃべりをして、適当に相槌を打ちながら、楽しくもないのに笑うんだろうか。
明確な夢などある訳でもなく、ただ漠然と、テレビの中の出来事や登場人物に憧れたフリをし、そうなりたいと口走るのだろうか。
そして、私も、それに従うのだろうか。
美術室に入って、挨拶してくる後輩に手を振ってから、描いている途中の絵を取り出した。
真っ白な絵の具で塗りたくり、その上に、様々な色で曲線を引く。
あの夢の樹であった。毎日一枚ずつ、スケッチブックに夢の通りの一枚を描いている。
その絵は既に十数枚目で、出来ればこの一冊だけで個人製作三点分にカウントしてくれないかと思うが、おそらく真面目で強欲な部長のことだから、スケッチブックのまま出せば、見た目が少ないからもっと個数を増やせと目を三角にすることだろう。
その絵は既に十数枚目で、出来ればこの一冊だけで個人製作三点分にカウントしてくれないかと思うが、おそらく真面目で強欲な部長のことだから、スケッチブックのまま出せば、見た目が少ないからもっと個数を増やせと目を三角にすることだろう。
今日は、赤い実がなった。彩度の低い色で幹を描いてから、真っ赤な絵の具でぽつりと、木の実を描く。
今夜は、あの木の実はどうなっているだろう。落ちてしまうだろうか。それとも、私の手でもぎ取って、あの赤い実の味を確かめることになるのだろうか。
「先輩」
不意に、声をかけられた。
顔を上げると、二年の水谷隆也がそこにいて、トレードマークの笑顔を全開にしてこちらを見ていた。
「また、夢の絵ですか」
「そうだよ」
水道に向かって、パレットと筆を洗う。水差しの年季の入った汚れも、何とか落とそうと試みる。
「水谷は、文化祭用に何を作るの」
「まだ決めてないんです。先輩みたいに、綺麗な夢を見てる訳でもないから、ネタが浮かばない」
「別に、綺麗なんかじゃないよ。変な夢だ」
水谷は少しだけ、黙った。明美が水差しの汚れと格闘するのをじっと見つめて、何かを考え込んでいるようだった。
「僕は、先輩の絵が好きですよ。もし同じ絵に彩色をしろといわれたなら、きっと先輩だけは、皆が思いもしなかった配色をするんじゃないかって思う。
この絵だって、先輩じゃなくちゃ見られない夢を見ていて、先輩じゃなきゃ再現できない光景を描いているんじゃないかと、思うんです」
この絵だって、先輩じゃなくちゃ見られない夢を見ていて、先輩じゃなきゃ再現できない光景を描いているんじゃないかと、思うんです」
明美はふっと笑って、やけに自分になついている後輩を小突いた。
「褒め過ぎ。お前だって、この前もコンクールで賞とったんだろ?それこそ、誰にでも出来ることじゃないだろうに」
「僕のは、審査員受けするというだけです。独創的なものは描けない」
水差しの汚れは、なかなか落ちない。
諦めて、石けんを手に取ると、そっと泡立てた。
「美術の先生になりたいんだってね」
「はい。イラストレーターになって産み出すより、型を教える方が自分にはむいてるかなって」
「早くないか、決めるの。まだ高二だぞ」
やりたいことですから、決めてる訳ではないです、と朗らかに笑って、水谷も石けんを手に取った。
「先輩は、夢、無いんですか」
「夢か。夢なぁ」
両手の人差し指と親指を合わせて、三角を作る。
開いた窓の外を、野球部が駆け抜けていった。
「夢は、シャボン玉かな――」
ふぅっと三角の真ん中に息を吹きかけた。
虹色に光るシャボン玉は、外へと飛び出して、ちょっと空中を彷徨って、みるみるうちに色を失い、はじけて割れた。
目の前に、赤い実がぶら下がっている。
他には花も実もないようだ。
明美はそっと手を伸ばして、実に手が届くか試してみたが、あとちょっとでとどかない。
もう一度、手を伸ばす。今度は少しだけ背伸びをして。
あと少し、もう少し――
急に、赤い実が宙に浮いた。
「君、これ、ほしいの」
太い枝の上に、真っ白な肌の少年が座っていた。
少しだけ年下のように見える少年は、髪は柔らかく、少し長めの黒髪で、真っ白なシャツに真っ黒なジーンズをみにまとっている。
「欲しい」
素直に応えた声は、少し高く、自分が幼い姿になっていることに気付いた。
「そう。でも、あげない」
少年が意地悪そうに笑って、赤い実にかじりついた。
「その少年、誰ですか」
次の日、美術室で夢の出来事を描いていると、水谷がまた絵を覗き込んできた。
「知らない。なんか、夢に出て来た」
「そうですか。美形だな、ちょっと妬いちゃう」
「意味わからん。ただの夢だ」
「先輩の趣味が反映されているかもしれないじゃないですか。そうか、先輩はこういう黒髪美少年が好みだったんですね。僕も黒染めしちゃおうかな」
ふんわりとした茶色の髪をつまんで笑ってみせるその真意は、読み取れない。
「明美」
部長の安藤若菜が、廊下からひょっこり顔を出して呼び出した。
「アーチ届いたから。紙貼って、下書き作業しよう」
「へーい。水谷、お前も小アーチ頑張れよ」
「任せて下さい」
彼は、そういって他の二年生を集めだした。
「部長、今年は扇風機どっから借りてこようか」
「ヤッシーが、最新式の扇風機買ったから家の古いの寄付するって」
「マジか。やったね。せっかくならその最新式のほう寄付してほしい。っていうかもうエアコン寄付しろよなー」
「ほんとにね」
こちらを振り返らないで応える若菜の心情は、三年間一緒にいる明美には手に取るようにわかっていたが、気付かないフリをした。
赤い実の果汁が、白い肌を、真っ白なシャツを、赤く染め上げる。
少年は驚いて口を開けたままの明美を尻目に、赤い実を食べきると、その種を明美の足元にほうって寄越した。
「君は、どんな実が食べたいの」
「わたしは、さっきの実が、食べたかったの」
そう口に出してから、幼い明美は泣き出した。心無しか、更に自分が小さくなった気がした。
「まだ、決めつけるのは早いさ」
そういって、少年はさっと腕を広げた。
木の葉が風も吹いていないのにざわつく。枝はしなり、大きく揺れたかと思うと、一斉につぼみをつけ、花が咲きほこり、そして、鮮やかな色の木の実へと姿を変えていった。
少年の、すらりと伸びた手足が、逆光に美しく映えている。
少年の、すらりと伸びた手足が、逆光に美しく映えている。
「さあ。君が本当に食べたい実を探してごらん」
いつも通り授業に出て、美術室へと向かう。
いつもと違うのは、やたら眠いということだった。
授業中もうつらうつらしてしまい、少しも内容が頭に入ってこなかった。
授業中もうつらうつらしてしまい、少しも内容が頭に入ってこなかった。
絵を描いている途中も、筆を握る手に力が入らない。
何とか夢の中の出来事を描ききって、明美は机に突っ伏した。
何とか夢の中の出来事を描ききって、明美は机に突っ伏した。
「先輩、大丈夫ですか」
気がつくと、水谷が顔を覗き込んでいた。
いつもにこやかなその顔を心配そうにゆがめて、じっとこちらを見つめてくる。
「大丈夫。なんだか眠いのさ」
そういっている間にも、睡魔に襲われる。昨日、少しばかり夜更かししたせいかもしれない。
今日は、しっかり寝なければ。
今日は、しっかり寝なければ。
「ちょっと」
若菜が、入り口に立っていた。
「さぼってないで、手伝って。水谷でもいいけど」
「下書きは、先輩方がやらないと。僕は、小アーチの方を描いてますから」
さらりとかわした水谷も、きっと、気付いているのだろう。
「水谷には、早くいろんなことを覚えておいてほしい。明美には、美術の基礎は教えられないんだから」
「基礎なら、先生や、絵画教室で教わりますから。それから、僕は部長になる気はありませんから。明美先輩の様に、この部活ではゆったり描いていたい」
一瞬。若菜の視線が、明美に突き刺さった。
「水谷と私の夢は、似てる。私は自分の絵画教室を開いて、個展も開けるようなプロになりたい。水谷は美術教員。明美には、美術で何かを成し遂げるどころか、夢すらないじゃない」
つきりと、心が痛んだ。
若菜は、優秀な後輩として、部長候補として、男として、水谷を側に置きたいと思っている。けれど水谷は、絵のうまさも成績も完璧な部長ではなく、いつもマイペースで指導も全くしようとしない明美に懐いた。それは、若菜にとって、堪え難いことだったろう。
「あー。ごめん。何か体調悪いから、さぼりじゃ無く、早退で。若菜、明日はちゃんと来るし、家から扇風機とCDプレイヤー持ってくるから許してちょ」
明美は、目の前で拝むように手を合わせ、すばやく荷物をまとめた。
「先輩、僕も」
「お前は、部長の言う通り手伝いなよ。でかい看板に下書きすんの結構大変だから。ついでに、美術の進路相談でもしたらいいじゃないか」
返事を聞く前に、明美は美術室から抜け出して、自転車置き場へと向かった。
勘弁してよ。私は恋愛のごたごたも、将来についてのごたごたも、関わりたくないんだって。
胸がチクチク痛んだ。本当は、誰より夢が無いことに焦りを感じていることなど、わかりきっている。
帰宅して自分のベッドに横たわると、すぐに眠気が再び襲ってきた。
(夕飯前まで、眠っていよう――)
あれでもない。これでもない。これも違う。
明美はさっきから、様々な色形の果実を手に取っては、地面に投げ捨てていた。どれも、食べたいようで、食べたくない。
「ねえ、いったいどんな実を探しているんだい」
少年が、落ちた実を拾って食べながら話しかけてきた。
「わかんない。やっぱりさっきのだったかな。でも、こっちかな」
「明美。なぜ、焦ってるの」
「だって、早くみつけて食べなきゃ、くさっちゃうよ」
明美が指差したところには、腐りかけ、茶色くなった果実がなっていた。
「明美が本当に食べたいなら、きっと腐らないはずだよ」
少年は、水谷の様にふわりと笑うと、明美の手をとって、一つ上の枝へと、導いた。
「ほら。まだまだたくさん、木の実はあるんだ。だから、こわがらないで。ゆっくり、一緒にみつけよう」
手をぐいっとズボンで拭って、少年は明美のあたまを優しく撫でた。
果実の甘い香りと、香水のような、でもどこかで嗅いだことのあるような、不思議な匂いがした。
その日の授業は、夢と現実を行ったり来たりしていた。
ちょっと気をぬくと、夢の世界で果実探しをして、ある時突然目が覚めて現実に引き戻される、その繰り返しだった。
睡眠時間が足らないはずは無かった。結局、昨日学校から帰ってきてから朝までずっと、食事もとらずに眠ったままだったのだから。
美術室へ行っても、絵をなかなか描き上げられない。
水谷が相変わらず心配そうな目で見てくるが、適当に手を振って大丈夫だと伝え、追い払った。今は誰とも話せそうになく、ただただ眠りたかった。
「明美、明美」
肩を揺さぶられて起きると、若菜がもの凄い形相でこちらを見ていて、一気に意識がはっきりした。
「大丈夫なの」
「あ。うん、大丈夫。ごめんごめん。扇風機とプレイヤー持ってきたから、明日からの夏休みは思いっきり制作できるよ」
「そうじゃなく、あんた、調子まだ悪いの。帰ったら」
昨日のことがあっても、その口調には本当に心配している気持ちがこもっていた。
「だいじょぶ、だいじょぶ。さ、下書き完成させちゃおう。早い方がいっぱい塗りに時間かけられるし」
若菜はまだ疑いの目をしていたが、ふっと視線をそらすと、美術準備室へと歩き出した。
大アーチは、美術準備室が普通の教室の半分の大きさしかないとはいえ、寝かせておけば端から端まできっちり床をおおってしまうほどの大きさがあった。
毎年、この看板を見る度、明美はわくわくしてしかたなかった。こんな大きさのもの、なかなか描けるものではない。
普段活動らしい活動をあまりしていない美術部にとって、文化祭までの活動が一年の活動の全てとも言える。
普段活動らしい活動をあまりしていない美術部にとって、文化祭までの活動が一年の活動の全てとも言える。
そして、このアーチ製作が、実質高校生活最後の活動である。引退が無いので、卒業までは暇さえあれば来るつもりだが、受験生であるからには、来られる回数も減るだろう。
本来ならば、夏休み中に学校巡りをしたり、夏期講習に通ったり、受験生は部活動にさける余力などないはずだが、そもそも明美は、まだ志望する学部すら決めていないのだった。
本来ならば、夏休み中に学校巡りをしたり、夏期講習に通ったり、受験生は部活動にさける余力などないはずだが、そもそも明美は、まだ志望する学部すら決めていないのだった。
部長の若菜は、昼間はアーチ製作を指導し、夜と活動の無い日は塾の夏期講習に参加して、受験と部活を見事に両立させている。そしてこの夏、有名美大のAO入試を受けるそうだ。自分の有り余る魅力を最大限に発揮して、彼女はきっと受かることだろう。三年間、一緒にいたんだ。身内びいきじゃなく、そう思う。
「君は、何を、夢見るの」
気がつけば再びうつらうつらしていた。
ほとんど寝転がるような格好で下絵を描いていたのが悪かった。準備室は持ってきた扇風機のおかげでなかなか心地よく、居眠りには丁度いい。
愛用の鉛筆はアーチにうねうねと曲線を描いて転がっていた。慌てて消すが、再び眠気に襲われる。
そんなに、睡眠が足らないのか。それに、少し頭も痛むし、若干吐き気もある。
「ごめん、ちょっとだけ寝かして。10分したら起こして」
「えー。しょうがないな」
そして明美は壁にもたれかかり、眠りについた。
吸い込まれるように――
「実は見つかった?」
「まだなの。さがしても、さがしても、みつからないの」
どれもこれも、自分が探している実とは思えなかった。どんなにおいしそうでも、何かが違う。食べたいと思っても、ちょっとでも手を伸ばすたび、何とも言えない切なさが明美の心をじんわりと侵食する。これは、自分が食べていいような実なんだろうかという迷いさえ、浮かんでくる。
「君が食べたいものを食べればいいんだよ」
その心を見透かしたかのように、少年は優しく諭したが、明美はゆっくりと首を振った。
「わからないの。わたしはどんな実をたべたいんだろう。いったい、何をもとめているんだろう。それとも、無いのかな。わたしがたべたい実」
少年は少し寂しそうに笑うと、それは君にしかわからないと言った。
「大事なことは、嘘をつかないことだ。今の君の気持ちに、素直になることだ」
少年は再び、明美のやわらかな茶色の髪を撫でた。
明美はいつもよりもずっと低い目線から、少年を見上げた。
「あなたは、みつけているの」
少年はちょっとだけ考え込むようなそぶりを見せ、それから樹を見上げると、ぽつりと言った。
「たぶん、僕はもう――」
「明美?いい加減起きてよ。作業進まないじゃない」
明美が眠ってから、ゆうに15分は過ぎていた。
若菜は何度か明美を起こしたのだが、明美はなかなか起きなかった。
しびれを切らした若菜が近づいて、肩を揺さぶっても、明美は起きない。水谷も手を止め、肩を叩いて呼びかけたり、頬を軽く叩いてみたが、起きる気配がなかった。
「ちょっと、冗談やめてよ、怒るよ」
若菜が強めに明美の腕を引く。
明美はそのまま、重たそうにどさりと音を立てて、床に倒れ込んだ。
「明美――明美?」
「まずい。明美、このままでは帰れなくなる」
「なんのはなし?」
「君が、現実に戻れなくなる」
きょとんとした顔で、明美は――最初よりもずっとずっと幼い姿になった明美は少年を見つめた。少年も、成長し、美しい高校生くらいの男子へと姿を変えていた。
「君は今、疲れ果てている。君が果実をみつけられないままだから、君自身が、探すことを諦めかけている。明美、急ごう。きっと君の求める実があるはずだから」
少年は明美の手をとると、樹をどんどん上へ上へと登りだした。その真剣な形相に、明美は怖くなって、ちらりと下を見下ろした。
さっきまですぐ傍にあると思っていた真っ白な地面は、遥か下へと遠ざかり、明美が捨てた実のありとあらゆる色の果汁が混ざりあって、どす黒く、不気味な模様を描いて波打っていた。
登っている間にも、明美の周りの実が、どんどん地面へと落ちていく。
周囲の景色は急速に変化し始め、黒い果汁は樹を飲み込むように這い上がってくる。
何が起きているか全くわからなかった。ただ、このままではあの黒いものに呑まれてしまうということは、明白であった。
高さと恐ろしさに足がすくみ、少年と繋いだ手は震えだす。
「明美、下を見てはいけない。上だ。上を見て、進まなければ」
少年は振り向かず、大きな手で明美の手を強くぎゅっと握ると、登る足を速めた。
「先輩、起きて下さい!先輩!」
水谷が明美の体を揺するが、明美は目を閉じたまま、静かに呼吸を続けるだけであった。
「私、先生を呼んでくる」
隣の美術室からも、騒ぎを聞きつけた後輩たちがやってきて心配そうに覗き込む。若菜と水谷が何度も呼びかけ、揺さぶっても、明美は起きない。
「明美、お願い、目を覚まして―ー」
「だめ、みつからない。わからない」
明美が手をかけた枝の木の実が、急激に輝きを失い、ふやけて地面へと落下してゆく。
先程まで踏みしめていた枝が、皮をたるませ、力なく折れ曲がっていく。
先程まで踏みしめていた枝が、皮をたるませ、力なく折れ曲がっていく。
「諦めてはいけない。絶対にある。恐怖心から探してはいけないよ。どれでもいいわけじゃないんだ、君が得たいものでなくては」
少年は――もはや少年とは呼べないほどに、背が伸び、声も低く美しい青年は、小さくなった明美を抱きかかえ、上へと足を進める。その時明美は、急に眠気に襲われた。起きていようと思っても、まぶたがどんどん重くなっていって、青年の腕の中で眠りそうになる。
「眠ってはいけないよ。眠ってしまったら、君はこの“夢”に捕われてしまう。しっかり起きて、君の実を見つけるんだ」
青年は明美をきつく抱きしめた。眠気と戦いながら、ゆっくり頷くと、明美は実を再び探し始めた。
眠っている明美の呼吸が、次第に遅くなり、浅くなる。
肌は青白く、今にも透明になって消えてしまいそうだった。
若菜はとうとう泣き出した。
「私が、明美をうらやんだから……明美がずるいとおもったから」
明美が絵をのびのびと描くのを、後輩からとても好かれているのを、それ全く鼻に掛けず自然に接することの出来る彼女を、若菜は羨んでいた。ずっと、芸術一家の長女として期待され、型にはまった美しい絵を描いてきた若菜にとっては、とても妬ましくもあった。
「そんなことで、明美先輩がこんな風になる訳がありません。しっかりして下さい、きっと大丈夫だから」
不安そうではあったが、水谷が励ますように言ったのに、若菜もまた不安そうではあったが、頷いた。
「あ、あれ――」
樹の遥か上の方、まだ真っ白な枝の先に、最初に実った実と似ているが、もっと大きく、もっと強く赤々と光る実がなっていた。
「あれ、あれが欲しい」
すっと木の実を指差す手が、少しだけ大きくなっているのに気がついて、明美は自分の体を見下ろした。さっきまで幼稚園児の様に小さかった体が、徐々に、しかし確実に大きくなって、元の姿へと戻りつつあった。
「おろして。もう、大丈夫。私、自分で登れる」
ひとつひとつ確実に、枝を登っていく。
下からは、黒いものの気配がせまる。
けれど、もう恐れることは無かった。めざすものを、見つけたから。
いや、本当は、見失っていただけで、ずっと前から――
明美はめいっぱい手を伸ばした。持てる限りの力を振り絞って。
けれど少しだけ、届かない。あと少し。もう少し。
ふわっと、体が浮いた。
青年が、明美の体を持ち上げて、支えていた。
黒いものは傍まできていて、青年の足を今にも呑み込もうとしている。
驚く明美に柔らかく微笑んで、さあ、手を伸ばして、つかむんだ、と囁いた。
もう、迷わなかった。
赤い果実に手が触れた、その瞬間。
黒いものが、蝶のように姿を変え、そして混じり合う前の果実のように、色とりどりに輝いて、世界を彩っていったーー
眩しくて目を閉じた明美が、再び目を開くと、誇らしげに微笑む青年と、色鮮やかな実を付けた大きな樹と、赤く輝く実とが、そこにはあった。
はじめと違うのは、少年が背の高い、二十歳くらいの青年にまで成長していたこと。
それから、樹も真っ白ではなく青々と茂る大樹になり、一本ではなく森のように、立ち並んで二人を取り囲んでいて、その枝の隙間からは、金色の日の光が差し込んでいること。
そして自分の手には、とても暖かく、愛おしい赤い果実が握られていること。
それから、樹も真っ白ではなく青々と茂る大樹になり、一本ではなく森のように、立ち並んで二人を取り囲んでいて、その枝の隙間からは、金色の日の光が差し込んでいること。
そして自分の手には、とても暖かく、愛おしい赤い果実が握られていること。
「見つかったね。君の果実」
「うん。ありがとう」
「僕は、なにもしていないよ。君が見つけたんだから」
青年が明美の髪を撫でた。夢の中での出来事だと思うには、あまりにも手放しがたいぬくもりであった。
けれど、これが最後であるということが、明美には何となく、わかっていた。
遠くの方で、ピィヨロと、トビの鳴く声がする。
それが“お迎え”であることを悟った明美は、たまらずに青年の胸に顔を埋めた。
「明美は、帰らなくちゃ。心配してる友達の声、聞こえるだろう?」
耳をすませば、かすかに、明美を呼ぶ若菜と水谷の声がした。目を閉じると、そのまぶたの裏に二人の影すら感じることも出来た。
「貴方とは、もう、会えないの」
「そうだね。僕はそっちへは行けないから。僕はこの森にいて、君の樹を守っているよ」
樹を見上げて、少しだけ寂しそうな顔をした彼は、そっと明美を離した。
「さあ。お迎えがきたよ」
彼が言うのと同時に、傍に人が一人乗れるくらいの大きさのトビが降り立って、明美にほお擦りした。それから明美の服をちょっとくわえると、ひょいと背中に放って乗せた。
「ちょっとまって、まだ貴方に話したいことが――!」
「さよなら、明美」
青年は、そっと近づいて、額に口づけをした。
その瞬間、嵐のような風と共に、明美は空へと向かって飛び上がった。一瞬見えた、寂しげな彼の笑顔をまぶたの裏に焼き付けて、明美はどんどん太陽へと近づいていき、そしてーー
目を覚ました時には、涙でぐちゃぐちゃになった若菜の顔と、不安そうに歪んだ水谷の顔が覗き込んでいて、その珍しさに、思わず吹き出した。
「明美、ひ、人が心配していたのに、何笑ってんの!」
「そうですよ、酷いじゃないですか」
隣には校医が呆れた顔で立っていて、ただの貧血だとなんどいったことか、と呟いた。
「ごめんごめん……いや、私帰ったらレバーとかホウレンソウとかいっぱい食べるわ、大嫌いなんだけどねー」
はははと軽く笑ってみせたが、貧血によるなにかではない、どこか違うところがつきりと痛むのを、無視できなかった。
「若菜、私さ、絵本作家になるよ」
ずっと申し訳なさそうな顔をしていた若菜に、そっと明美は告げた。
「明美、そのことなんだけど、本当にごめん……」
「いや、無理矢理出した夢とかじゃないから、大丈夫だよ。本当に、やってみたいんだ」
にっこり微笑んで若菜を見ると、若菜はまた泣きそうな顔で、明美をみた。
「ごめんね。私、夢が無いなんて馬鹿にして」
「いや、実際無かったから、焦ってたけど、もうこのまんまじゃだめなんだなって、若菜の言葉で気付いたよ。ありがとう」
「何か、明美、変わったね」
「そうかな。そうだとしたら――」
明美はふと、空を見上げて考え込んだ。そして、ふわっと笑うと、今度はいたずらそうに笑って、若菜を肘で突いた。
「そんなことより、そろそろツンはやめてちゃんと水谷にアタックしたらどうかね?とられちゃうぞー」
「ちょっと、明美!」
若菜とこんな風に話すのも、久しぶりだった。
二人で笑い合いながら、帰路につく。
空は、青の絵の具をこぼしたような鮮やかさだった。
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プロフィール
HN:
まめがら茶
性別:
女性
自己紹介:
色んな世界の物語を書いています。
大体は異世界・現代ファンタジー。
好きな小説は、
上橋菜穂子さんの『狐笛のかなた』、
荻原規子さんの『白鳥異伝』、
香月日輪さんの、大江戸妖怪かわら版シリーズ。
和を感じられるお話が好きです。
それから、アレックス・シアラーさんの『チョコレート・アンダーグラウンド』も、何度か読み返しました。
佐竹美穂さんの挿絵が小さい頃から好きだったのですが、
小学一年生の時に上橋さんの『虚空の旅人』と一緒に
分厚い上中下巻の『封神演義』を読んだのは無謀だったかな……
絵は、一番好きなのはアルフォンス・ミュシャ、特に『黄道十二宮』です。
大体は異世界・現代ファンタジー。
好きな小説は、
上橋菜穂子さんの『狐笛のかなた』、
荻原規子さんの『白鳥異伝』、
香月日輪さんの、大江戸妖怪かわら版シリーズ。
和を感じられるお話が好きです。
それから、アレックス・シアラーさんの『チョコレート・アンダーグラウンド』も、何度か読み返しました。
佐竹美穂さんの挿絵が小さい頃から好きだったのですが、
小学一年生の時に上橋さんの『虚空の旅人』と一緒に
分厚い上中下巻の『封神演義』を読んだのは無謀だったかな……
絵は、一番好きなのはアルフォンス・ミュシャ、特に『黄道十二宮』です。
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